|
師走です。師走といえばお芝居の世界では「忠臣蔵」今月も歌舞伎座で忠臣蔵外伝とも言うべき「松浦の太鼓」が上演されます。例の「旧余噺」の再録 宝井其角伝少し長いですがお読み下さい 江戸っ子列伝〜宝井其角〜2002</span>/12/01「YUKA蔵の歌舞伎大好き」 「松浦の太鼓」は忠臣蔵のエピソードの一つです。松浦侯は先代吉右衛門が得意にし、当代の吉右衛門もよく演じています。 芝居そのものはたわいもない愚劇に思えますが、殿様のキャラクターで愉快に後味よく見られるのがいいです。だいたいこの松浦侯は、naojiro選定"歌舞伎三大バカ殿様"の1人〔あとの2人は、先年新之助が怪演した<彦市ばなし>の殿様と<河内山>の松江候〕ですが、松江候みたいに他人に迷惑をかけることなく単純なノー天気で愛すべき殿様です。だから役者もそういう愛嬌のある人がやるとぴったりです。 この芝居は、身をやつした大高源吾と松浦候の句会へと向かいがけの宝井其角が、両国橋で偶然に出会うところから始まります。この場面は講談では有名ですが、実際は会ったかどうか定かではありません。 芝居では老年の宗匠で演じます。これまでは又五郎、大播磨の頃は八世団蔵がお決まりでした。しかし其角は、宝永3年(1706)47才で亡くなっています。この年元禄15年(1702)は43才くらいで人生50年の時代でも老人とはとてもいえません。そういえば、十七世勘三郎の松浦侯も独特の無邪気な殿様といった感じで面白かったのですが、この時は十三世仁左衛門が其角をやってこれもまた結構でした。 其角は寛文元年(1661)江戸日本橋で医者の子として生まれました。 医学の他書、禅、画などの造詣も深く当時一流の文化人でしたが、特に俳句は芭蕉の門下で蕉門十哲の筆頭に数えられとくに江戸っ子には絶大な人気を得ました。その作風は派手で機知に富み衒学的でおよそ芭蕉の"わび・さび"とは対極的ですが、どういうわけか芭蕉はこの才能を愛し其角も又生涯芭蕉を尊敬していたようです。 其角はその一門にお大名、大身の旗本、紀文のような豪商、儒者、武士、町人と交流も広く、赤穂義士でも大高子葉(源吾)富森春帆(助右衛門)神崎竹平(与五郎)は一門でした。 元禄16年2月4日、義士切腹の報を聞きこれらの人々を偲び うぐいすに此の芥子酢はなみだかな とよみました。「うぐいすにすり餌に似てるといって芥子酢をあたえるとはむごいことで涙が出る」と幕府の冷徹な処断に対する其角の感慨が出ています。 晩年、其角は日本橋茅場町に居住しました。今の証券会館の並びに昭和三十年代まで"きかく"という料亭があり、其角住居跡ということで玄関脇に"其角の井戸"という井戸が残っていました。 向島三囲神社の雨乞いの句「夕立や田をみめぐりの神ならば」はもっとも知られたもので神社には句碑がたっています。 夕涼みよくぞ男に生まれける 鐘一つ売れぬ日はなし江戸の春 越後屋に衣裂く音やころもがえ など、みなさんもご存じでしょう。 邦楽や芝居にも取り上げられることは多く さみだれやからかさに釣る小人形(長唄あやめ浴衣) 我が雪と思えばかろし傘の上(清元流星) 闇の夜は吉原ばかり月夜かな(助六幕開き唄) などお耳に馴染んでいるでしょう。 この『闇の夜は…』は「晦日に月の出るさとも闇があるから覚えていろ」(御所五郎蔵のセリフ)でいわれるように、月のない晦日でも吉原は明々と不夜城であるという風に解釈されますが、"闇の夜は"で切るのではなく"闇の夜は吉原ばかり"で切り"月夜かな"とよむと「世間は明るい月夜だがここ吉原だけは女たちの涙で月も曇る闇夜であると吉原が悪所暗黒街である」と言う意味となります。其角の性向からみるとどうもこっちのほうがほんとうらしく思います。 吉原については 小傾城行きてなぶらん歳の暮れ (世間は暮れでせわしないことだが、こちらは吉原でも行って若い女郎と遊んでこようか) と、naojiroがおおいに共感する一句もあります。 |
| << 前記事(2005/11/26) | ブログのトップへ | 後記事(2005/12/08) >> |
| タイトル (本文) | ブログ名/日時 |
|---|
| 内 容 | ニックネーム/日時 |
|---|---|
こんにちは。 |
友香梨 URL 2005/12/03 09:06 |
早速のコメントありがとうございます。そうですか今夜行かれるのですね それはお楽しみ。 |
naojiro 2005/12/03 10:21 |
| << 前記事(2005/11/26) | ブログのトップへ | 後記事(2005/12/08) >> |